古き日本の良さって。

金曜日の朝の番組で、『国家の品格』の著者がインタビューに答えていたのだが。
現在の日本で急速になくなっている、奥ゆかしさとか、卑怯を許さない、とか。
なるほどと思いつつも、イマいちピンと来ないなあ、と思っていたのだった。


で、夕べ『縄文少年ヨギ』(by水木しげる)を読み、今の時代に欠けているものが
ちょっと分かったような気がした。
今の時代、何でも理屈をつけたり、損得勘定だったり、それが当たり前になってるが
当たり前になっていることによって、生きにくくなっているんじゃないかな、と。
人生半分くらい生きてるくせに、この程度の認識なんだから、今の子供はもっと
殺伐とした日常を送ってるかもしんないな。


自然と寄り添う、というか畏怖しながらの生活が何万年と続いた後の、
たかだか1000年程度?プラスチックや科学物質が氾濫してから、たかだか60年程度?
のうのうと生活できる反面、生きる目的が曖昧になってる。
ヨギの時代は、単に生き抜くだけで精一杯で、そうして生命の糸を絶やさなかった
おかげで、現在があるとゆーわけで。


日本の良さってところに戻ると、ものの善し悪しの基準が、自然との調和というか、
理屈でなくて中庸に置いているところだ。
「昔からこうだから」というのは、理屈ではないので、戦後散々破壊しつくされた
概念なのだが、その結果どうなったのか。・・・でもこの結論にはまだ抵抗があるな。


『ヨギ』は短編の積み重ねなのだが、「争いのつぼ」「反省のつぼ」という話があった。
ちょっと長いけど、あらすじは以下。
長老の美しい娘が、神事にのっとった婿取りを嫌がったので、無理矢理ヨギを参加させ
形式的にヨギを婿にして一旦は収まる。その後ヨギはつぼを拾い、つぼのおかげで
富が集中してしまって、結果、周囲の村も巻き込んだ大きな争いが起こる。
これは争いのつぼだったのだ。解決するにはヨギを殺してつぼに入れなければならなくなり、
壊そうとしたり色々やっているうちに、娘が、身代わりに、すぽっと入って溶けてしまい、
そのおかげで争いも収まって一件落着。
結局何が悪かったのかというと、神事を無理矢理変えてヨギを参加させたことが
つぼを呼んだ、と。神事のしきたりを守らなかったから、祖先の怒りが、つぼになって
やってきた、と。んで、結局つぼは村を見守る神だったのでは?、と。
ヨギの「な〜んだ、神だったのか。」というセリフがオチになって終わる。
(や、そして、ほんとに最後のコマで、娘が飼っていた猿を抱いて、あやす。)


なんつーか、現代の、コトが起こった時の決着の付け方とのギャップが。
法律がどうこう、だと責任の所在はどこに行くだろうなあ。(あの番組も弊害だよな。)
しかし、昔からのしきたりが、寸断された今、規範はどこに?
理屈じゃない分、深く研究するとか、新たな理屈をなんとかくみ取るしかないのか。
今生き残っている人の記憶があるうちにどうにかしなきゃならんのか。(諸星概念だ。)
この先どうなるのかなー。人ごとじゃいかんかなー。