『スプートニクの恋人』読んだ。

ほんとは仕事はあるんだけど、図書館で借りてしまったもんだから辛抱たまらず
読んでしまった。実はその前に『神の子どもたちはみな踊る』と『アッコちゃんの時代』
も読んでしまっている。サルです。(『ご近所物語』も図書館でさくっと読了。)
それにしてもいつも行ってるA図書館、何回行っても『カラマーゾフの兄弟』上巻がない
のはなぜ??予約しなきゃ読めないのか〜?


スプートニクの恋人』なんともスカっとしない読了感。でも色々考えさせられる。
スプートニク」といえばライカ犬だが、そこはスルーしてロシア語の意味の方で。
そして村上作品にはめずらしいタイプの「すみれ」ちゃんという女の子が出てくる。
まあ、段々村上テイストな人になっていくのであるがね。=無駄な肉がついてなくて
ネイビーブルーの半袖のワンピースが似合ってて、スペイン語とイタリア語が話せて。
そして、事前に『遠い太鼓』を読んでいたので、ローマに行ったり、ギリシャの島に
休暇に行くなんて展開も、はー、なるほど、と思えたことよ。読む順番は合っていた。
「僕」という人は小学校教師なのであるが、これが実に村上キャラで、どー考えても
どこがどう小学校教師なワケ?という空気が流れていて、ツッコミ所満載なのだが、
案の定最後にしっぺ返しがあって、まー、これはこれでアリか、と納得できる。


すごく残るのは、「血を流す」ということ。
これは「僕」がすみれちゃんに「中国の門の作り方」を説明する時に出た話なのであるが
創作という呪術の深いところに迫る問題を提示してるんではないか、とか思ってしまった。
ミュウはそこからころがり落ちてしまった人。技巧はあっても「血を流す」事をしなかった
人の末路、としてはかなり厳しい。
で、すみれちゃんの恋はなんつーか、理解不能なのだ。理解不能なのが恋だ、といってしまえば
それまでなのだが、星子が空知に恋する方がずっとわかりやすいのとは次元が違うのだ。
音楽の趣味が合うくらいだし、洗練されてるっつったて、カリスマ光は出てないし、レストラン
でも甘いものはガマンしてるワケで、ブラックホールの胃を持つ彼女の方がずっと魅力的っすよ。
だから受け入れられず通過していく人、という事なのかもしんないけど。
とにかくすみれちゃんは「血を流」してどこかに行ってしまった。で、それは小説を書くという事
みたいなレベルではない次元に行ってしまったということなのかなあ。
もしかしたら「小説を書いて残す」という以上にどう生きるか(どう死ぬか)という命題が重要、
という事なんだろーか?小説至上主義のアンチテーゼ?村上版「書を捨てよ」?うがちすぎか?
もーちょっと咀嚼してみるなり。『ねじまき鳥』を読めば解明されることもあるかもしんないし。


しかしなー、なんといっても、今、自分が「血を流」してない事を思い知らされますなあ。
わかってるんだよ!今はしょーがないんだって。しかしそれは言い訳か?がうがう。


あ、と。「恋人」って英語でどういうんだっけ?と思ったら、表紙に「Sweetheart」とあり、納得。
まー、他にも色々な表現が色んな段階に応じてあるんだろーけど、(らばさんとか?)「恋」を
辞書で引いたら「Love」って、それは芸のない表現なのだろうなあ。英語はトンチが必要なのか?