ナルシシズムと自己表現。

今日のばなな日記を見たら、吉田氏の本が面白いとあり、「おっ。吉田氏発見された?」
と思ったらポイントは広田玲央名で、引き続き松井冬子という美人系の流れであった。
(でも最近のストリームの吉田さん、面白いっすね。今のところ一番楽しみだ。)
最近の美てちょって全く見てないし、寡聞にして松井冬子という方を知らなかったので、
ぐぐったらYouTubeでいくつか映像あり、思わず色々見てしまった。
うーん、ある系統の女子が好きなタイプ。でも気になったのは制作時の髪型や服装だ。
安野モヨコ氏も着飾って仕事するらしいが、そのままドロドロになっていくのに対して
撮影だからか、毎回様々なファッションで。特に「これは作業しにくいだろう」という
ミニスカとか興味深かったっす。解剖に向かう時の服装も、うーん・・・。これはイケ
てるのか?メイクも、うーん。どうなんでしょう。
映像を見始めた時は、やっぱお洋服とか見た目、ちゃんとするということが自己表現に
繋がるのか?と反省しかかったけど、この方は、うだうだとカスタードを煮込む幸せは
ご存じではないかもしれない、と思うと、やはり外見にかまいすぎるのもどうか、と思う
のであった。素材が良いんだからそんなに手を入れなくても良いんぢゃないかなあ?
と、表題は壮大ではあるが、浅いところでやめておく。


追記
外見にかまうことと、超絶技巧のベクトルというのは、共通な気がするのだ。
画家になるために、めちゃくちゃがんばって芸大に入る。めちゃくちゃがんばって技巧を
手に入れる。めちゃくちゃがんばって勉強して東大に入って官僚になる。のと似てる?
確かに常人にはできることではないし、技巧も素晴らしいので、それだけで賞賛されて
しかるべきだとは思うが、「エッジが効いたもの」というところでの九相図というのは、
ちょっと安易なんではないかなあ。リアルなグロテスクは一時的には人を引きつけるけど
それを持続させるためには自傷方向しかなくなってしまうのではないか。
自画像がすごく良いのに、その方向ではだめなのかなあ。上野氏の言う、幸せになった
時の絵が見たい、というのは本当にその通りだと思うのだ。